anabukis articles archives

穴吹史士が書いた記事

AICキャスターclick
2002/12/16

おでんな夜
その夜は、おでんと決めて、堂島川のほとりのホテルを出た。久しぶりの大阪だったが、友人、知人はみんな先約があって、ひとりで夕食を取ることになり、さあ、何にするかと考えて、おでん。おでん屋のカウンターなら、ひとりで座っていても見苦しくはない。その夜がおでん向きに寒かったこともある。

曾根崎のお初天神あたりに、おいしいおでん屋があるという記事を、昔、新聞で読んだことがあり、まず、そこを目指す。お初天神では、師走の手形の心配をしているのか、熱心に願い事をしている人がいたが、おでん屋は、見つからなかった。後に聞いたところでは、区画整理かなにかで、立ち退いたとか、移ったとか。

曾根崎警察著のそばに、有名なおでん屋の名を冠した食堂ビルがあったものの、どういうわけか、おでんは商っていなかった。やむなく、寒風の中、キタ新地まで引き返す。おでんをメニューに挙げている店がないではなかったが、小料理屋、割烹の類ばかりで、自分がイメージしている「寒い夜、おでん屋のカウンターで、わびしいひとり酒」とはかけ離れているようで、パス。

歩き回っているうちに、午後８時にさしかかり、お腹が減ってくる。おでん断念するか？　だいたい、おでんが特に好きなわけではないのだ。家の外では、年に１度、食べるか食べないか。そもそも、子供のころは、おでんなどといわず、「関東炊き」とか「関東煮」とかいい、冬よりも夏、海水浴の浜辺で、串に刺したこんにゃくが５円か10円で……、などと考えながら歩いていると、目の前に、赤い文字であっさり「おでん」とだけ書いた提灯がぶらさがっていた。

おお、これこれ、ガラス戸を引いて入ると、奥に向かって長いカウンターがあり、がらーんとして、お客は１人もいない。鰻の寝床のような店のいちばん奥で、おばあさんが、愛想笑いするでもなく、こちらをじっと見ていた。一瞬、選択を間違ったかと、思う。不景気で人出ばったり、といわれるキタ新地ではあるが、これまでのぞいてきた店で、お客がゼロというのは、さすがになかった。新地の一等地でこの閑古鳥。なんか、わけありの店か？

と、腰はやや引けたが、おでんで何万円もとられることはあるまいと、覚悟を決めた。というより、目の前で煮えているおでん鍋の誘惑に勝てなかった。で、こんにゃく、牛蒡天、スジ、きんちゃく、大根、蛸、と、それから１時間余り、お客は１人も来ず、おばあさんと差し向かいで、黙ってるわけにもゆかず、「お年はいくつ？」「大正３年、数えで89」「えらい元気やねえ。この店は何年くらいしてるの？」「昭和25年から、もう52年」「ひえーっ」という成り行きに。

東京から来たというと、「うち、東京好きやわ。昔はよう行ってたの。汽車で８時間。飛行機やと6000円」「い、いつのこと？」「昭和25～26年かなあ」「な、なにしに？」「常磐津のお稽古。尾張町（＝銀座４丁目交差点）から歌舞伎座の方へ入ったとこに、ひいきの呉服屋があって、これええな、これもええなゆうてると、全部送ってくるのん。渋谷で店買えへんかゆう話もあったなあ」「ね、ねえさん、あんた何者？」

キタ新地では、知る人ぞ知るねえさんなのだった。昭和の初頭、ミナミ宗右衛門町の富田屋のお座敷に10代で出て、名妓といわれるようになった。「富田屋のごりょんさんは、ネービーが好きで、山本五十六さんなかも、ようきぃはった。大和屋さん？　あっちは、アーミー」。おでん屋の「Ｍ」という屋号は、お座敷に出ていたときの名前なのだという。ちなみに、富田屋、大和屋というのは、当時の宗右衛門町の格式高い料亭である。

Ｍねえさんは関西財界の大物にかわいがられ、出てくる名前は、武長さん（武田薬品の先代か先々代？）、近鉄の佐伯さん、アサヒビールの山為さん、若いころの幸之助さん、と錚々たる顔ぶれ。「黒田さん（元大阪府知事）は偉かったわ。老人に地下鉄無料のパス、くれはったんやもん。それで、わたし、毎日地下鉄で店に通てるけど、ただやもん。でも、もっと偉かったのは関さん（元大阪市長）。地下鉄作りはったんやもん。御堂筋も作りはって、そのときは、あほかゆわれてましたんやで」

キタ新地半世紀、いちばん変わったのは、人情がなくなったことだという。そんな話をしているところに、私の友人が、先約を終えて合流。Ｍねえさんが、「ほんまに不景気やわ。今年は、忘年会の予約が１件も入ってへんの」といっていたので、「ねえさん、ぼくのこの友達は、ろくなやつやないけど、人情だけは厚いねん。忘年会の予約入れてもらい」「あそー、おおきに。でもなー、はよぽっくり死にたいわ」「そういわんと、次ぎ来たときも元気でおってな」と店を辞すと、大阪の夜は更け、「ほな、ミナミへ回ろか」と性懲りもない酒飲みなのでありました。