母珠江のこと
2002年7月26日

黄色味がかったモノクロ写真をながめているような、そんな気分で母のことをそしてその時代のことをたどってみる。

大正１２年１１月２１日生まれ。昭和３９年４月１７日私が高校３年生の時に亡くなった。父岡田武雄と母岡田綾子（通称俊子）の長女である。岡田武雄は明治３１年７月石川県七尾の生まれで、神戸高商を卒業後、創業間もない野村銀行に入社した。金沢市広岡の岡田家に婿養子として入籍し綾子の夫となる。昭和６年３４歳で野村銀行天六支店長となり、以降中央市場、片町、歌島橋、上六、東京の日本橋各支店長となり、第二検査部長を最後に終戦をむかえ、４８歳で退職している。

母珠江が父淳一と結婚したのは、昭和１８年のことと推定される。私の祖父である岡田武雄が野村銀行上六支店長で、父淳一が同支店に勤務していたという縁で結ばれたと聞いている。昭和１９年９月５日第一子をもうけたが、同月１２日に死亡。その後、昭和２２年２月に私、２５年２月に妹純子が誕生した。

母珠江は、小さいころは、西宮市の川添町や香枦園町あたりの野村銀行の社宅にて住まい、育った。小学校低学年のころにすでにその父は支店長であったことであるから、充分に豊かで文化水準の高い生活をしていたものと推測できる。

甲南高等女学校では、当時有名な作家であった佐藤紅禄の娘の佐藤愛子と同級生で、母の最期まで交流があった。私が子供のころ、ＮＨＫテレビ番組に「わたしの秘密」というのがあって、その制作者から母に出演依頼があったが断ったという話を聞いたことがある。作家の遠藤周作がメインゲストで、そのメインゲストの「秘密」をレギュラー出演者が質問をして推量し、当てるというのがこの番組の企画内容であったが、その秘密たりや、母が遠藤周作の片思いの初恋の人であったというものであった。

この番組に出るには、母も若すぎたのであろう。この話は、母方の祖父母からも聞いたが、その時、祖父は、このおばあちゃんは、室生犀星の初恋のひとで、小説にも出てくるんだよと言っていた。こちらの話は、冗談かもしれない。

父淳一と結婚して富田林の家に住んだのであるが、結婚に合わせて離れ家が新築され、そこが新婚生活のスタートの場となった。しかし、富田林は当時もかなり文化水準の低い田舎で、加えて田中家は現金収入が乏しく、家の佇まいはともかくとしても極めて慎ましい生活を余儀なくされていた。そんなわけで、阪神間で生活をしていた独身時代とは、格段の違いがあったはずである。

そのことをどう受けとめていたかは、わからない。このことを含めて、子供の私は、母から愚痴を聞いたことは全くない。お客があったり、誰かの誕生日には、ご馳走を作ってくれた。エビフライ、ビーフカツレツ、ポテトフライ、オムレツなど。マヨネーズつくりを手伝ったことも何度かある。日曜日の昼はパンとミルクテイー、砂糖の甘みがきいたミルクテイーのおいしかったこと。ハンバーグ作りも手伝った。

中学生の時に編んでくれたセーターは、大学生になってからも登山のときに、着た。小学生のころまでの衣類は、下着の猿股まで、母の手製によるものであった。鶴亀算を教わった。半泣きになって教わったことが多かった。

昭和３９年２月体調不良を訴え、大阪市生野区筆ヶ崎町の大阪市立桃山病院に診察を受けにいった。私が同行した。この病院には、祖母千代の甥にあたる山上茂氏が院長としておられ、その計らいで丁重な診察を受けることができた。即入院をせよということになった。それから２ヶ月、あっという間に逝ってしまった。

その間、私は毎日、同級生の鈴木直一君の自転車を借りて、お昼に学校を抜け出し、病院に行った。母に出された病院食は、母には受け付けることができず、それを私が食べていたのである。

４月１７日の早朝、母は息を引き取った。母の亡骸とともに家に帰ると、チューリップが咲いていた。ツツジは満開であった。癌であったことは、亡くなってはじめて知った。葬式の日、母の入った棺桶、座棺であったが、それがリヤカーに乗せられ、廿山の墓場までの一キロを、行列を作って押し黙って引っ張っていったのを覚えている。