古座川は紀伊半島の深奥に源を発し、半島最南端から熊野灘へ注ぐ川である。高校時代の恩師の避暑小屋が河畔にあり、この夏、友人とそこを訪ねてカヌーで遊んだ。

古座川を訪れたのは、人生２度目で、前回は1969年の春だったから、もう33年前のことである。新町三条の新聞屋を出て、九州に赴任するまでのわずかな時間を、もっと気の利いた卒業旅行ではなく、山奥を流れる川のために割いたのは、新聞配達仲間のＳが、その流域の町を故郷としていたからだった。「ぜひ、いっぺん来てほしい」と、Ｓから懇願されていたのだ。

大阪府の中南部にあった実家から、南海電車で和歌山に向かい、紀勢線で半島を南下する。いまでも南紀への道は遠い。当時はもっと遠く、延々と列車に乗っていた記憶がある。ようやく串本にたどり着き、１日に何本しかないバスの発車時間まで、潮岬へ出て海を見ながら時間をつぶした。

串本からのバスは、また延々たるものだった。古座川に沿って紀伊半島を分け入り、途中、大きなダムのほとりで、乗客全員が降ろされ、マイクロバスに乗り換えて、さらに奥へ奥へと分け入る。

Ｓの生まれた村は、古座川の谷間が明るく開けたところにあり、家は大きな構え農家で、地元の有力な一族のようだった。何人かいる男の兄弟の中には、大阪へ出て事業をする者、弁護士を開業する者がいた。Ｓは末弟で、兄弟の中では例外的に数奇な運命をたどる。今回以降、順次、その運命を述べるつもりである。

母屋から離れた納屋の２階が、Ｓの居室だった。納屋といっても、豪壮な建物で、私の実家よりもずっと立派だった。そこに１泊し、翌日、村内にある吊り橋を渡ったりし、Ｓとその母親が、もっと泊まってゆけというのを固辞して、また延々と大阪へ帰っていった。三条新町という町中に住み慣れ過ぎてか、田舎に違和感を覚えたのである。

阪神大震災の前年の1994年、46歳でＳが結婚した。神戸のYMCAであった結婚式に出席すると、母親が挨拶しにきて、私が古座川の家を訪ねたときの思い出を語った。「ほんまに、漢字をよう知っとる人やゆうて、感心したもんです」という。４半世紀経って、Ｓの母親は、ずいぶん歳を取って見えた。（つづく）

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余談

うちの家に１枚のネパール絵画が掛かっている。人体を大きく描き、中央の線に沿って、頭のてっぺんから下腹あたりまで、いろいろな守護神の図が入っている。チャクラというのだろうか、まあツボを図示した民間医学指南のようである。

Ｓのネパール土産である。後に触れる機会があると思うが、Ｓは植木職人として経験があり、植林のボランティアで、幾度かネパールに渡航していた。そんな折りに買ってきてくれたもので、ほかに、どこかの祭壇から切り取ってきたらしい女神の木像ももらった。カトマンズの怪しげな骨董屋に呼び込まれて、売りつけられたのだそうだ。

そんな縁から、Ｓが結婚したのはネパール出身の女性だった。政権の有力者だった両親を政治的混乱の中で失い、神戸在住の学者に養女として引き取られていた人である。結婚式はネパール式で行われ、Ｓは花嫁と一緒にネパールの踊りを踊った。足首に鈴のついたベルトを巻き、ステップを踏むと、しゃらしゃらとそれが鳴る。おまえも踊れというので、ステップを真似て、私も踊った。